教会にどうぞと言われても


内灘聖書教会牧師 横山 幹雄

 私が初めて教会の門をくぐったのは十八歳のときでした。その時は相当の勇気が要りました。「弟が来たいと言うので連れてきました」と嘘を言ったくらいです。教会の敷居が高く感じるのはどんな理由からでしょうか。自分自身のその頃の思いを振り返りながら、教会に誘われる人がなんとなく敷居が高く感じられることを挙げて、答えましょう。


 お金を取られるのではないのか?


 内灘聖書教会は、四年まえに現在の千鳥台の地に引っ越してきました。これで四回目の引越しになります。旭ヶ丘、鶴ヶ丘、緑台、そして現在の地です。よく、教会はお金をどうやって集めるのですか。どこから来るのですかと問われます。あんなに大きな建物を建て、広い駐車場を持っているのだから、よほどお金がある教会と見られているようです。
 教会のお金はどこからも来ません。外国に本部があって送られてくるということはありません。すべての必要は、日曜日の礼拝の際に、かごを回して、各自が自由にささげるお金 (献金と言います)でまかなわれています。だれがいくら献金しているか、だれも知りません。それぞれが、神様への感謝のしるしとして、ささげています。その意味の分からない方や、持ち合わせのない方などは、そのままかごを次の人に回してかまいません。
 献金は入場料、説教の聴講代などではありま せん。
 それに教会はみんなからお金をむしりとって営利を得ているなどということはまったくありません。あるとすれば借金がいっぱいあって、せっせと支払っているというのが実情です。


 教会に行くと無理やり信者にさせられるのでは?


 教会に来られても、まったく入会を迫られるなどということはありません。入会手続きなどということもありません。
 教会としては、ひとりでも多くの方々に教会においでいただき、聖書の教える生き方や、イエス・キリストについて語られることを聞いていただきたいのです。何年でも、納得ゆくまで聞き続けてくださることが、一番うれしいのです。
 宗教はマインドコントロールされるので恐ろしいという警戒感がオウム真理教事件以来広まっているようです。キリスト教を装いながら、しかし実態はそれとは程遠いエホバの証人(王国会館)や、統一教会はまさにマインドコントロールによって人々を操作する危険な新興宗教です。それには気をつけてください。
 教会では、みんなで賛美歌を歌い、聖書の一節が読まれ、その箇所を中心にした説教(メッセージ)が牧師によって語られます。


 キリスト信者になると戒律に縛られて自由がなくなるのでは?


 私も教会に行くまではそう思っていました。厳しい戒律を守って不自由に生きているのがクリスチャンだと考えていたのです。しかし、まったくの逆だったのです。「キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださいました」と聖書にもあります。私もクリスチャンになってその自由を謳歌して生きてきました。それまでは、様々なものに束縛されて、不自由に生きていたのです。将来への不安という束縛、死への恐れという束縛、罪の性質を断ち切ることのできない罪の束縛などにがんじがらめになつていたのです。
 キリストはそうした束縛から私たちを解放して、自由を与えてくださるのです。世界の偉人たちの多くがクリスチャンです。どうしてそんな偉大な業績を残しえたのでしょうか。彼らが自由だったからです。束縛から解放されて軽やかに、自由な発想の中から偉大な発明が、発見が、行動が、作品が生まれてきたのです。
 あなたは本当に自由ですか?