◆私はこうしてイエスキリストを信じました キリストの証人」


坂本 孝子さん
北川 恵子さん
宮本 葉弐(みやもと ようじ)さん
宮本 とみ子さん
石田 佑子さん
坂下 潤さん
坂下 京子さん
坂下 元夫さん




「8」坂本 孝子さん

 「雪よりも白くなりましょう」
 私は1995年12月24日泉野聖書教会にて受洗致しました。当時、私は重く沈んでいました。三年ぐらいそういう気持ちのまま過ごしておりました。結婚生活の間にすこしずつ「あれ?おかしいな」と思う事が溜まっていたのだと思います。外で活動していたので、とにかくそれを他人に気ずかれる事が恐かったのです。それで明るくしていた積りでしたが、或る日、親しくしていただいている方から
「近ごろ顔つきが暗いよ」と気ずかれてしまいました。
 よく真夜中に自転車でなるべく自宅から遠くへ離れるようにと走っていた頃です。よくあんな事が出来たものだと思います。前後の見境がなくなっていたのでしょう。私は溜まっている夫に対する不満や反発を聞いてもらいました。私は自分が正しいと思い、違う考えや生き方をしている人をあまり認めていませんでした。一番我がままが通る家族に対してそれは顕著に現れていたと思います。そして夫もまた、私とは違うタイプの我がままぶりをみせておりました。私の不平不満をじっと聞いていたその方は、穏やかに一言、「教会に行ってみない」と誘って下さいました。本当に「あ、」と思いました。
 というのは学生時代、英会話学習が目的でしたが、日曜礼拝に出席しておりました。 「私の罪」を悔い改めた記憶が蘇ってきましたそれを受け入れてくださったイエス様を思い出しました。すぐに教会に出かけました。
 それからは、神様と長谷川先生,教会員の皆様との祈りと交わりの中で、素直に自分自身を顧みることも出来、夫にどうして変わってくれないのと望むのではなく、私自身が今日一日を「私の罪」を赦して下さった神様に喜んで頂けるように過ごす事が一番だと思っております。
 詩篇51:7
  ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。
  そうすれば、私はきよくなりましょう。
 私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。




(7)私が初めて「神様」に出会った時のお証しをさせて頂きます
       金沢あおぞら教会 北川 恵子

 1990年。運動サークルの友が甲状腺の手術を受けました。
 お見舞いに行った後、自分の口の中の腫れ物が少しずつ大きくなっているようで急うに心配になりました。(その数年前、知り合いの先生に診ていただいた時は、「小さくてレントゲンにも写らない、軟骨腫だろう。心配ない」と言われ放っておいたものです)すぐ受診したら切除したほうがよいと言われ、外来で切除して頂きました。
 先生は良性とも悪性とも説明されず、それがかえって不気味でした。そしたら気になるところが次々と出て来て、甲状腺も腫れているし、子宮の腫れ物も見つかりました。
 主人はいますぐどうなる訳ではないから様子を見ればいいと冷静ですが、私はもし癌なら小さい内に見つけて全て取り除いて気持ちをすっきりさせたいと思いました。
 北陸の暗い冬、一人家に居ると不安がどんどん大きくなり気持ちがどんどん暗くなり、自律神経失調症となりました。
 そんな時、術後すっかり元気になった、クリスチャンの友が家を訪ねて私を励ましてくれました。そして「愛なる神様」のことを伝えて下さいました。
 私の中にあった、いわゆる神様のイメージは、人が悪い事をしないかと常に上から見張っていて悪い事をしたら罰を与え、正しいけど(行いの良し悪しで判断される)怖い神様でした。
 しかし聖書の「神様」は罪を赦し、つらい時、苦しい時、不安な時抱きしめて背負って下さる愛なる「神様」です。その「神様」が私を愛して下さっているとわかった時、不安と恐怖で一杯だった心がふっと楽になりました。
 私は彼女が通う泉野聖書教会へ導かれ、長谷川先生より「神様」のお言葉をわかりやすく説き明かして頂きました。また心合わせて皆で祈って下さり、慰めや励ましを受けました。
 そしてまだ理解出来ないところもあるけれど、私を愛し助けて下さるこの「神様」について行こうと決心しました。
 平安を頂き1991年6月に甲状腺癌の手術ヲ受け癒され、その年のクリスマスに受洗しました。その時頂いたお言葉は
「あなたがたは恵みの故に信仰によって救われたのです」エペソ2章8節
 その一年を振り返って見ると、癌と言う「神様」が与えて下さった試練を我力でなんとかしようとすればするほど不安が何十倍にも広がりました。
 しかし愛なる「神様」の胸に“助けて下さい”と飛び込み抱きしめて頂けば、状況は変わらなくとも心はふっと楽になる言う実感と、神の定めた時に 全てを働かせて益とし、解決して下さったと言う体験です。(子宮筋腫はその後大きくなり続け、8年後に手術を受けました。)

 もし聖書の神様を知る事なく生かされていたらその後どうだったろうかと思う事があります。我力で名医に頼り手術が成功してもあちこち体の悪いところを探し出し再発の不安で、ノイローゼになって、せっかく生かされているのに暗い人生を歩んでいたかも知れません。
 どんな時も愛する方に寄りかかって歩む人生が与えられ本当に感謝します。

「自分の愛する者に寄りかかって荒野から上って来る人は誰でしょう」雅歌8章5節



「6」  新しい自分   宮本 葉弐(みやもと ようじ)

教会というのは不思議なもので、入ると心が素直になれる、休まる、あったまる。本当に聖なる場所だと思います。初めて教会に集ったのは2歳の時で、お母さんに連れられて行きました。しかし、小学校の後半頃から行かなくなり、心の中では神様を信じているといっていても実際は、ぜんぜん違っていました。何が違うというと、「自分を中心とした考え方」これが大きな間違いでした。そして、その事に気づいた時、僕は一人で真剣に祈り、自分の罪を悔い改め、涙がこぼれ落ち、イエスキリスト様が十字架につけられたその事を思い出しました。
 すると、祈り終わった後、心の中の重荷がとれました。この時、罪のゆるしを体験することができ、イエスに感謝しました。また、この時から生まれて初めて聖書を読みたいという気持ちになりました。「信じてバプテスマを受ける者は救われます。」とイエス様がいわれたそのみことばで、洗礼を受けたいと思い、
「神の国とその義とをまず第1に求めなさい」マタイ6章33節のこのみことばで自分の正しい生き方がわかりました。今では、喜んで教会に集っています。すべてを神様にゆだね、イエスキリスト様の御名によって感謝してお祈りいたします。アーメン



「5」 宮本とみ子さん

「苦しみにあった事は、私にとってしあわせでした。
私はそれで、あなたのおきてを学びました。」詩篇119:71

 尊き主の御名をほめたたえます。
 私は、物心ついた頃から、愛に飢えていました。戦災で無一文になった母は、女手ひとつで四人の子供を育て、体を壊し入院し何度も生死をさまよい病院生活が続きました。
 私たち四人は、食べ物もなく、毎日飢えと寒さといじめに耐えた日々でした。
 兄からの虐待で私は親類に引き取られ、中卒後、紡績に入社し、
定時制高校を卒業したのです。その間思いを寄せた方との文通に励まされ、将来の結婚を誓い合うようになりました。しかし、私が年上でもあり、父親がいない事で相手方の両親から反対され生きる希望が絶たれ、死を覚悟しました。ところが運悪く?助かり、全て忘れるために、大阪・神戸を拠点としたデパート巡りの仕事につき、少しづつ、失恋の悲しみは癒されていったのです。仕事で金沢に来た時に今の夫とめぐり逢い結婚しました。
 ところが、私が描いていた温かな家庭とは異なり、精神的、経済的にも私の肩に重くのしかかってきたのです。
 なによりも辛いのは愛されない事でした。目に見える物は働けば手に入ります。夫とのきずなが見えない分、私は二人の子供を愛しました。そう、私は失恋したあの日から、いや、親の愛すら知らない幼い頃から、「永遠に変わらぬ愛」を追い求めていたのです。
 そして、私が30歳の時、夫は交通事故で危ない状態になり、真剣に自分と子供の将来を考えるようになったのです。答えが出せない日々が続きました。そんな時。レナード宣教師・背戸牧師・フラニー先生を通して信仰へと導かれ、神の存在と愛・罪について学ぶようになりました。一人二人と信仰の友も与えられ
 33歳の時、受洗させて頂きました。
 当時医師も驚く早さで夫が回復し、退院出来ました陰には、レナード師をはじめ多くの方々の祈りがあった事は今でも感謝に絶えません。夫は青空礼拝やファミリークリスマス会等 私と共に参加し、まさに牧者なるキリストに養われて憩う羊の様に祝福のただ中を通らせて頂きました。
 ところが、私の弱さの故に全てを満たして下さる主を拠り所とせず、必要を自分の力で満たそうと日曜も働くようになり、徐々に神の愛から離れて行ったのです。
 45歳頃から胆嚢を摘出し、胸のしこりを切除し、それでも神の招きに気づかず、 とうとう事故にあって長い期間痛みに苦しみました。腰の骨がつぶれ、ドクターストップで、仕事の出来ない体となりました。収入のなくなった私を夫は荒々しくののしりました。
 だんだんと心は傷つき「私は一体なんのために今日までがんばっていたのだろうか。」築いても築いても壊される空しい現実でした。
 長い間、子供の為にと耐え続けて来た夫に対する怒りと憎しみがとうとう
噴き出してしまいました。
 あの夜、息子が止めなかったら、体を張って止めてくれなかったら、本当に夫を
殺していたでしょう。
 その夜私はあらためて自分の罪深さを示され、今までの生き方を心から神の前に悔い改めました。
涙がとめどなく流れ、祈っている時、主は、優しく語って下さいました。
 「女の方、あなたの罪は許されました。」
 「さあ、わたしのもとに帰りなさい。」
 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」とー。

 振り返れば、あの若かりし頃も、夫の事故の時も、また私の苦難の時もー。あれも、これも、幾度も主は御手を差しのべ守って下さいました。
 私がもう一度神のもとに帰ってから、二人の息子も受洗し、今、中西牧師をはじめ兄弟姉妹との交わりと祈りを通し支えられ励まされ、キリストにある平安を与えられ祝福を受けている毎日です。
 これからは、決してキリストの十字架から目を離さず今の自分に出来るだけの方法で主の証人として立ってゆけたらと祈る日々です。主のみこころにすべてを委ねて。
金沢あおぞら教会 宮本とみ子



「4」 石田佑子さん 「主のご計画によって」
金沢あおぞら教会 石田佑子

 出身地は新潟市。両親は旧制の中学校と女学校の教師で、1932年二人姉妹の姉として誕生。小学校卒業までは新潟で育ち、女学校入学の年に父の勤めのため会津若松市へ。同年終戦を迎え、翌年から新制中学となり、中学高校の六年間をその地で過ごした。その後新潟にもどり、新潟大学教育学部入学。  卒業後、西頚城郡の名立町立名立中学校に勤め、国語を担当。その頃、糸魚川高校に勤めていた夫(松任市出身)と出会い、結婚。一男一女に恵まれた。
 長男の小学校入学の春、夫の出身地である石川県に戻る。三年後の次女誕生を機に子育てのために退職、専業主婦となる。子育てが少し落ち着いた1979年、地区の人たちに推薦されて、石川生協の理事となり二年後、副理事長となって十年間勤めた。
 たまたま起こった生協内のある事件のため、心に大きな衝撃を受け、落ち込んだ時、長女の誘いで、泉野聖書教会の門を叩き、1991年に58歳で受洗。
 以後、全能なる神様の深いご愛に包まれて感謝の日々を送らせて頂いている。この10年間、私にとって人生の大事と言うべき多くの出来事があった。
 中でも、1996年にただ一人の妹が登山中の事故のため急逝した事、1998年に思いがけず乳癌になり、全摘手術を受けた事は忘れ難い。
 しかし、どんな時にも、主が共にいて下さり、守り導き大きな平安を与えて下さる事を体験し、感謝と喜びで一杯である。
 1998年に泉野から額への支援メンバーの一員として派遣され、
翌年、正式に移籍して現在に至っている。全ては主のご計画である事を覚え、心からの讃美を捧げます。



「3」坂下 潤さん

 私は、両親がイエス様を信じていたため、生まれた時からイエス様を礼拝し、イエ ス様とともに生活することがあたりまえになっていました。
 とくに周りから悪くいわれることもなくそのまま生活していたので、恵まれてはい ましたが少し平和ボケのようなかんじになっていました。
 私がイエス様をあらためて自分の事としてうけいれたのは中高生のキャンプに参加 したときでした。そこで、

(ヨハネ1:12、13)
 「しかし、この方を受け入れた”人々”、すなわち、その名を信じた” 人々”には、神の子供とされる特権をお与えになった。
この”人々”は血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

 という聖句を教わり、その中の”人々”を自分の名前に置き換えてよむようにいわれました。
 この時あらためて、聖書も、神様も過去のものではなく、今のこの私のためにあり、ただ恵みとして、無償で救ってくださったことを感謝しました。

  金沢あおぞら教会 坂下 潤



「2」 坂下京子さん

 1948年生まれ 坂下京子
 私は小学生の頃。なにをしていてもつまらなくて、「なんのために生きているが?
どうしてなにをしても面白くないが?」と聞き、
「変な子やね、世の中こんなもんや」
といわれました。

 中学2年生の時、友人に誘われて、初めて教会のハイキングに行きました。聖書も、讃美歌も、お祈りも初めてでした。その時から教会に通いはじめ、イエス様の十字架の救いの事を聞かされました。
 その時(これだ、求めていたものは、これだったのだ)
とすぐに、イエス様を信じました。
 それからは世の中が変わってしまったような、全ての事が嬉しくて、楽しくて教会に熱心に通いました。
 でもちょっとした事で教会に行けなくなりました。それから2年後、高校2年生の時、夜、急に(いま死んだら私はどこへ行くのか?
 イエス様を裏切ったから絶対に天国へは行けない。
 では地獄へゆくのか、本当に地獄って有るのか、一体どこへ行くのだろう)
と考え始めたら怖くて怖くて眠れなくなりました。
 次の日、教会の敷居が高くて、なかなか入れなかったのですが、勇気を出して、イエス様のもとにもどって行きました。
 その時に、はっきりと死の恐怖から救われました。
 私は死ぬ事も、死んだ後さばきを受ける事も全然怖くありません。イエス様が全部解決して下さいました。感謝です。



「1」坂下元夫さん

 私がまことの神様(キリスト教では、こう呼びます。)を知ったのは、高校卒業の時でした。
 まことの神様は、人の苦しみを取り除き、幸せを与える方だと知らされました。人の苦しみは罪から来るものだと言われた時は、頭の中を自分のしてきた色々な悪事が駆け巡りました。その罪を償うべき刑罰を、まことの神様は、神の子キリストに負わせ、十字架によって解決されたのだと聞いて、本当に感動しました。
 愚か者を罰するのでなく、人を幸せにしようとしていると、言うのです。これこそ真理だと思いました。
 さらに、神様は、確かに死んだはずの、イエス様を3日目に生き返らせたと言うのです。そうだ、人間に出来ないことが出来てこそ、神なのだと納得しました。
 そして、愚か者を幸せにする、神様は、難しい勉強や、辛い修行によって幸せにするのではなく、キリストの十字架の事実と意味を信じて、それが自分のことだとするだけで、その、恩恵が受けられると教えられ、すぐその場で信じる者となりました。
 私に話をしてくださったのは、二十歳過ぎの横山先生(現在、内灘聖書教会牧師)でした。
35、6年以上立った現在、信仰は、生涯のものであり、死んだ先まで続く幸だと思っています。
 金沢あおぞら教会 坂下元夫